関西観八会

観音寺第一高校第8回卒業同窓会関西部会

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2009年関西観八会総会・・・吉野山紀行   

月15日午後 観音寺、高松、福岡県からの6人を含む大阪方面からの観八会会員24人は、大阪阿部野橋発13時10分の吉野行き特急1号車に乗った。関西観八会の今年度総会出席のためである。

日は好天気だが、前々夜から前日にかけての雨風による落花が気に掛かかりながらも、久しぶりの顔合わせで、電車内は話が弾む。

途中京都方面からのメンバーを橿原神宮駅で合流し、14時25分 終点吉野駅着。駅前には奈良県内などからの先着組が5,6人。

矢野、畠中、元木の3君は総会会場(宿泊所)の芳雲館に先行し、三宅・脇君らは東京組の到着を待つために残り、他の20人ほどはゆっくりと山上に向かう。大きな荷物を持つ数人はロープウエーに乗ったが、ほとんどは七曲りの坂を上ってロープウエー山上駅付近へ。3日前ならば桜花に囲まれているはずだが、残念ながら一面新緑となっている。

山上駅からは土産物店が並ぶ道。シーズンなので、歩行者天国となっている。残り桜は所々にちらちら見えるが桜見物からはすでに過ぎている。  

しかし、出掛ける人帰る人で結構大勢の人出。

観八会の一行も吉野駅前を出るときは大人数だったが、山上に着いた頃にはいくつかのグループに分かれ、それにつづく土産物店街を進むうちにさらに分かれていった

土産物店街は予想外に長く、後で地図を調べて見ると約1kmあった。2.6kmといわれる天神橋筋商店街には及ばないが・・・

途中「黒門」、「仁王門」を経て蔵王堂に至る。黒門は修験本宗総本山金峰山寺の総門で、本堂蔵王堂は室町時代の建築で仁王門ともに国宝に指定されていると聞く。

 金峰山寺は修験道の開祖といわれる役行者(えんのぎょうじゃ)が1300年前に蔵王権現を感得して開いたと伝えられている。

以後、天武天皇を始め多くの天皇や秀吉、秀頼などの寄進を受けこの頃より庶民の山上参りが盛んになった。明治7年の神仏判然令では神社に区分されるなど苦難の年月があったが、明治19年には、仏堂に復帰した。

土産物店の間に、太閤秀吉が「一目千本」と感嘆した花見の本陣と伝えられる吉水神社の案内柱があった。

 左への急な坂を下り、再び坂を上ったところに神社がある。その向こうに3日前なら一面の桜色がみられたであろうところには、輝く新緑の景色があった。わずか3日の違いが悔やまれる。

宿泊先の芳雲館は土産物店の終わるところから右前方への急な坂道の上の方にある

 土産物店の終わるところが中千本のバス終点。そこから右前方に急な坂道があり、その両側は旅館街。急な坂道をえっちらおっちら上り切る少し手前に目的地「芳雲館」があった。滋賀県組の木下・小林・田尾君らは車ですでに到着していた。

「芳雲館」からは桜満開の千本桜が望めるはずだったが、やはり一面の新緑。谷向うの後醍醐天皇陵の近くに雲居の桜であろうか数本の残り桜が見える。後は奥千本に期待するだけ。

今春の吉野山総会は総勢36名。 おいおい全員がそろって6時から和室大広間で総会。矢野君の司会進行で、亡くなった方への黙祷が終わるとともに、ふすまの向こうから謡曲が聞こえてきた。後で聞くと観世流の「吉野天人」だった。内容は都の人が吉野の桜を見物に出かける話でこの人を観八会の人にモジッタものであった。レコードかと思った人もいたが、聞き覚えのある声だ。謡の中に「観八」の言葉が入ったので、脇君だと知れた。この1年間に「なくなった観八会員はいないのに黙祷とは」と思ったが、脇君がそっと抜け出す仕掛けだった

 後はいつものように世話人代表、本部代表の挨拶の後、乾杯して宴会。

宴会の途中で、関西観八会初参加者と遠方からの参加者に一言ずつ話してもらった。

宴会に続いてカラオケ。聞き惚れるような歌もあった。最後は、「高校三年生」に代わって一昨年から定番となった「六甲おろし」でお開き。

つづいて、寝室6室の一つにほとんど全員が集まり、2(3?)次会。周りに少しは気遣いながらも深夜まで談笑が続いた。

翌16日は、「もしかすると桜の花が・・・」という期待を抱いてホテル近くからバスで奥千本口へ。

奥千本口バス停近くにある金峯神社にお参りし、そこからは歩いて下った人も数人いたが、大部分は、急な坂道を更に西行庵に向かい、乗用車が通れる程度の幅の道を2,30分上ったところに「西行庵0.2km」の標識。細い道を歩いていくと前方に桜色がやっと見えてきた。そこには、かの西行が結んだといわれる庵が再現されている。奥千本にきた甲斐があり、桜花の写真もとることができた。

また、吉野の桜は樹高があり、近くからだと見上げねばならず、谷向うに一面の桜を遠くから見るのが見方であると勝手な解釈をし、吉野の桜には近づかない方がよいとも思った。

西行庵からは別の細道を通って下山。高城山展望台近くの桜は満開で、そこへのアプローチは急坂なるも息を切らしながら上った甲斐があった。

次いで、平安時代からある延喜式の水分(みくまり)神社を拝観した。この神社は水分―流水の配分を司る神社であったが、みくまりから訛っていってみこもり(御子守)へと信仰の形が変わって行き、かの秀吉もお参りして秀頼を授かったといわれている。

続いて、佐藤忠信が主君義経を落ち延びさせるために奮戦して討ち死にしたといわれる花矢倉へと降りていった。

花矢倉からは上千本、中千本には、桜はなかったが、蔵王堂を中心にした絶景が眺められた。

右手の谷向こうに緑の桜木を見ながら、途中左手に後醍醐天皇の皇子大塔の宮(護良親王)の顕徳碑が立つ桜展示園を横目で見て、ときに葉桜並木をくぐって荷物を預けてある昨夜のホテルへと向う。途中、千利休が作ったと言われる竹林院の群芳園を見学したグループもあった。

朝乗ったバス停の横を通ると長い行列。1時間半待ちとのこと。我々同様、桜を求めて奥千本にということだろう。下りの道で大勢が登ってくるのに出会ったのも道理だ。バスをあきらめて徒歩でという人が多かったのだろう。

ホテルで、畠中君から、通信、写真の編集、ホームページの運用など、関西観八会の運営に対してカンパの提案があり、出席メンバーからカンパをいただいた。

荷物を引き取って昼食場所、蔵王堂近くの柿の葉寿司「やっこ」へ三々五々。

食事のあと、斉藤君から定番の健康講座、今回は・・・・。

今回の総会を取り仕切った矢野君はここで、「今年度総会としての行事は一応終了」と宣言してほっとした表情。本当にご苦労さまでした。

昼食後吉野駅へ。往路で素通りしたメンバーは蔵王堂を見物したり、ご近所・友人へのくずもち・よもぎ餅、吉野葛を買い求め、七曲りの下りをものとせず降りていった。

吉野駅での電車を待つ間もソフトクリームを買い、頬張って童心に帰っていた。

吉野駅からの近鉄電車内も話題が尽きなかったようで、余韻を残しながら再会を約した。

文責:永田    


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